日本の素材百科
第16回

石と京印章

日本の歴史に、はじめて印章=はんこが登場するのは「漢委奴国王」印、漢の皇帝から贈られた「金印」だ。こうした金属製の鋳造印は、誰もが容易に作れるものではなかったが、のちに石や木の印材が登場すると、印章の用途と可能性は大きく広がった。江戸時代ごろには、書家・画家や陶芸家らが本人証明や品質保証のためにも印を用いるようになり、当時の教養人らは、これら作品に添えられる多種多様の印を楽しんだ。

現代に伝わった印章は、生活に欠かせない実用品でありながら、意匠の美しさや手触りを愛でるための小さな芸術品でもある。その豊かな個性が、私たちの人生の節目を支えてくれる。

印材としての「石」

印章に使われる素材は、多種多様だ。ツゲやアカネなどの木材、黒水牛や牛の角、象牙、金属、そして石材である。ほかにはゴム印や、アクリル樹脂製のはんこも一例に挙げることができるだろう。

その中で、印材に用いられる石に必要な条件とは、まず適切な硬さで、金属製の印刀で彫ったり削ったりできること。それでいて、実用品として長期間使用しても文字や意匠が崩れず、印面を維持できることが必須条件だ。外見や手触りがよく、書斎を飾るにふさわしいものであれば、なお良いだろう。透明度や地紋の違いを見比べて“自分だけの材料” を選ぶのも楽しみのひとつである。

石の産地は主に中国で、なかでも福建省の寿山一帯で採取されるものが最高品質とされる。また、浙江省の昌化県や青田県からも多くの良材が産出される。ただし、現代に至るまでに有名産地は掘り尽くされてしまっており、もはや新たな名石に出会う機会は非常に少ない。収集家の狙いは、もっぱら希少な古印材に移りつつあるようだ。

印材石には、宝石にも匹敵するような価値ある希少材が存在する一方で、数百円で手に入る安価な石も数多い。ただし、こうしたありふれた石にも価値を付加する方法がある。それが、彫りと加工の技術なのだ。

左端は石の印章、右側3本は竹の根を使ったもの
左側は牛の角、右側は黒水牛


手彫り、手仕上げ彫り、機械彫り

印章づくりは、まず印材とサイズ(印面の直径)を決めることからスタートする。続いて、文字の書体を選ぶ。たとえば、実印や銀行印によく用いられる書体といえば、篆(てん)書体や印相体だ。なかでも篆書体の起源は約2,200年前とされ、秦の始皇帝が宰相に命じて定めた漢字の統一書体「小篆」が基になっている。最も歴史が古く、由緒正しい書体として人気が高い。

彫りの工程や基準は印章店によって大きく異なるため、ここでは、京都市の河政印房による製作の様子を一例としてご紹介しよう。「機械彫り」の場合、既存の印章店用フォントを用いてパソコンで印稿を作り、反転させた鏡文字を彫刻機で彫る。ただし、汎用フォントをそのまま配置しただけの印面は再現が容易で、偽造・複製などの危険を排除できない。そこで、たとえば「辺を少し長く」「口を少し小さく」など、既存のフォントに若干の手を加えてバランス調整を行う。この作業のおかげで、同じフォントデータから同姓同名の人のはんこを何本作ろうとも、すべて異なる印面ができあがるというわけだ。

職人の手彫りによる印章の場合、荒彫りまでを彫刻機に任せて最終段階を職人の手彫りで整える「手仕上げ彫り」と、荒彫りから仕上げまでをすべて手作業で行う「手彫り」がある。こちらは既存のフォントを使わず、辞書の中から使用する文字を選んで白紙の状態から印稿を書き起こしていく。全体のバランスを考慮して文字を小さな印面の枠内に収め、細かく文字と余白を調整して美しいレイアウトに仕上げていく。

印床(篆刻台)と呼ばれる台に固定して彫る


変化する“はんこ”市場

実用印章の素材となるのは重硬な木や動物の角・牙。印刀は一見彫刻刀に似た道具だが、素材が硬く、彫刻刀のようにただ前に押しながら彫り進めることはできないため、印刀を下から上にはね上げるようにして、てこの要領で荒彫りを進めていく。仕上げは片刃の印刀に持ち替え、荒彫りの線の縁をごくわずかに削り取るようにして、滑らかで鮮明な線に整える。仕上げ用の印刀の切れ味の鋭さは特に重要で、この工程が、のちに捺印する際の文字のキレに影響するという。

石の印材は、木や動物の角よりさらに固い材料であるため、石彫用の印刀を用いて、刃の尖った部分を斜め下方向に押し込むようにしながら彫る。

これらはすべて印面の内側、極小世界での作業だ。想像を絶するほど緻密で繊細な技術である。

片刃/両刃のものがあり、数本の印刀を使いわける


京印章の技術を繋ぎ、新しい需要に応える ――河政印房

江戸時代以降、政治経済の軸足は東京へと移ったが、学問や芸術・文化の中心地は未だ上方にあり、京都の私塾からは数多くの才能ある若者が輩出され続けた。ここに文人サロンとも呼ぶべき文化人のネットワークが生まれ、盛んに交流が行われたのである。その中で、文化芸術の発展と並走して独自の形で洗練されていったのが「京印章」だ。

京都市の河政印房は、昭和21年に創業した京印章の販売店だ。小売業として長年にわたって営業を続けてきたが、現在は受注・製作から販売までを一貫して行っている。

かつて、伝統工芸の手技はいわば門外不出の技術だった。だが、ベテラン職人らの高齢化によって後継者育成が急務となった近年では、印章業界でも、業界団体が中心となって、必要な人に惜しみなく技術を教える方向に舵を切っている。河政印房も、その波に乗って新たに彫りの技術を学び、ものづくりに参入した格好だ。

製作をはじめたことで、同業者団体だけでなく若手職人のネットワークや勉強会を通じて異業種の職人らと繋がりを持つようになった。このことが、河政印房に新しい可能性をもたらした。2024年に京都伝統工芸協議会が公募した「京都伝統工芸・新商品コンペティション」で奨励賞を受賞した、河政印房・河合祥子さんによる「石の印章 ひかり」は、その好例である。

「ひかり」は、石の印章に京金箔押しと、漆塗り螺鈿(らでん)を施した印章だ。それぞれ京都の伝統工芸職人の協力を得て実現したものだという。異素材の組み合わせが目新しく、美しく、また実用品としても手馴染みがよく押しやすい。日本らしい素材・技術でありながら、モダンで現代的なコンビデザインは、漢字に興味のある海外の人々にも京印章の魅力を訴求できるとして高い評価を得た。

いま、河政印房は知識と技術を一般の人にも広く伝える方向にも動き出している。展示会やイベント、ワークショップなどで実演や体験会に誘いの声がかかれば、必ず出向いて講師役をつとめる。一般の人にもわかりやすく、楽しく触れてもらう機会を作りたいという。

先人から受け取った技術を手に、現代人らしく知恵を絞り、新たな需要に応え続けること。その積み重ねの先に、もっと先の遠い未来へバトンを受け渡すための道程も見えてくる。

「石の印章 ひかり」≪京金箔押し≫
「石の印章 ひかり」≪漆塗り螺鈿≫


手前は木の手彫り作品「和顔愛語」 奥にはゴム印の大きい作品も


お話をうかがった人

「河政印房」
河合 良彦さん、河合 祥子さん

河政印房 三代目の河合良彦さん、河合祥子さんは、それぞれ一級印章彫刻技能士試験に合格し、さらに京都府が認定する京もの認定工芸士を取得した京印章の職人夫婦だ。一級印章彫刻技能士は印章業界唯一の国家認定資格で、印章彫刻の実力を客観的に保証するものである。

「でも、資格なんてほんの入り口に過ぎません。実は一級を取った後も、自分の作ったものはまだまだ至らないという思いが強くて、長い間、手彫りの印章をお客さんに提供する決心がつかなかったくらいです」。

もっと上手な人に師事して学び、技術を高めたい。そこで祥子さんは、尊敬する職人に添削を頼んでみることにした。師匠からは「自分も若いころにそうやって学んだものだ。他にも勉強したい人がいれば、ぜひ一緒に連れてくるといい」と、思いがけず喜ばれ、歓迎された。現在も毎月、課題をもらって添削を受けている。さらに、コンテストや技術競技会があれば、可能な限り参加する。現状に満足してしまわないためだという。

良彦さんは家業を継ぐまで、はんこ屋にリピートのお客さんなんて来ないものだと考えていたが、それは間違いだった。確かに実印は一生に一本のものだが、実印を作ったお客さんは、数年後には子どもや孫の就職で、結婚や出産で……、自分以外の家族の人生の節目に再び河政印房に立ち寄ってくれることがある。

「だから僕たちは、はんこなんか何でもいい、どこで作ったって同じでしょって言われないために、常に優れた良いものを提供しなくちゃいけない。これと並行して、京印章の技術のことも、正しく広く知ってもらう努力をしたい。こんなに多様で奥深く、面白いものなんですよって伝えていくことは、明日のために種を蒔くことだと思っています」。

社会にはこんなに大勢の人間がいて、それでもこの世に同じはんこはふたつと無いのだ。河合さんご夫婦は、今日も、誰かの未来に寄り添うかけがえのない一本を彫り続ける。


(取材・執筆/石田祥子  記事監修/河合良彦さん、河合祥子さん) 参考文献:『ハンコの文化史 古代ギリシャから現代日本まで』(新関欽哉 著/2015年/吉川弘文館)




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