現存する世界最古の木造建築物、法隆寺。これを支える建材は、主にヒノキ材だ。大型の建設機械もない時代の建築に携わった人々の、またそれを劣化や火災から1300年間も守り抜いてきた先人たちの努力といったら、並大抵のことではなかっただろう。
日本人は、古く縄文時代の太古から木を利用してきたとされる。「木」は、日本人の生活、文化、そして歴史に、最も長く身近に寄り添ってきた素材のひとつだ。
日本の国土約3779万haのうち約66%、およそ3分の2にあたる約2510万haは、森林に覆われている。人の生活圏に近く、人が森林資源を多く利用してきた地域は、その後も造林によって人工林が広がった。一方、高標高地や離島など、利用が困難な場所には今も天然林が残されている。
国内の代表的な林業地としては、たとえば古くから「日本三大美林」と呼ばれてきた地域がある。天然林の三大美林として、青森県のヒバ、秋田県のスギ、長野県木曽地方のヒノキ。さらに人工林の三大美林として、静岡県天竜地方のスギ、三重県尾鷲地方のヒノキ、奈良県吉野地方のスギ。これらは江戸時代から続くブランド木材=銘木産地だ。
ほかには、京都府の北山スギによる北山丸太、昭和初期まで存在した東京のスギによる四谷丸太なども歴史のある有名産地と呼んでいいだろう。また近年は、新たな地域材のブランド化が進んでおり、山形県の置賜木(おきたまのき)、富山県のNEIWOOD(婦負森林組合)などもその一例である。
だが、これらはあくまでも高価な“ブランド木材”。無名の林業地で産出される、ごく一般的な木材こそが、私たちの日々の生活を支えてくれていることも忘れずにいたい。
国産材の中でも、建材として長く利用されてきたのは、主にスギやヒノキなどの針葉樹だ。針葉樹は枝分かれせずにまっすぐ育つため、長い材をとりやすい。また、材が軽くて柔らかく、加工しやすい。
一方、広葉樹の材は家具や内装材、木工品などによく使われてきた。針葉樹に比べると一般的には重くて硬く、加工の難易度は高くなる半面、キズや摩耗に強いとされる。また、針葉樹の樹種が540種あると言われているのに対して、広葉樹はざっと20万種。当然ながら、各々の性質も複雑でバラエティに富んでいる。
どの林業地にも、またどんな材に関しても共通するのは、大きく、長く、幅広の……、つまりは質の良い部材を確保することが年々難しくなっているという問題だ。樹齢数百年の木を一度切り倒してしまえば、同様の部材を得るためには、再び木が育つのをただ待つ以外に方法はない。
資源不足の根本的な解決にはならないにしろ、方法の一つとして注目したいのが、古材の再利用だ。たとえば、古民家を解体する際に出る、梁や柱などの解体材である。
木材は、一般には含水率が低くなるほど強度を増していく。また、急激な含水率の変化は割れや反り、寸法の狂いの原因にもなる。その点、古民家の梁や柱として使われている古材は、いわば、長い時間をかけて自然乾燥し、平衡状態を保っている状態の良い材だ。虫食いや欠損がなければ、古材だからといって特に質が劣るわけでもない。むしろ、現代ではもう入手困難となった立派な部材にお目にかかることも少なくはない。
現在では、質の高い古材を再利用する動きも、徐々に進んでいる。強度に申し分のないものは構造材として再利用が可能な場合もあるし、そうでなくとも内装や外装に、あるいはインテリア製品へのリメイク材に生まれ変わることができる。木は、新たな命と姿形を得られさえすれば、別の場所で、さらに長く生き続けることができるのだ。
日本の伝統的な木材加工技術のひとつに、釘を使わず、ノミや小刀などを使って凹凸を彫り込んだ板材や棒材を接ぎ合わせる指物(さしもの)という技術がある。ほかに、木をくりぬいて作る刳物(くりもの)、木を彫刻する彫物(ほりもの)、ろくろや旋盤で木の表面を削って加工する挽物(ひきもの)、薄板を曲げて成型する曲物(まげもの)、短冊状の側板を並べて箍(たが)で締める結物(ゆいもの)などの技法も古くから受け継がれてきたものだ。
これら伝統的な木工技術が今に伝えるのは、新しく物を作る方法だけではない。古道具の修復・再生においても、その技術が大きく生かされるのである。
和家具の調度指物と聞けば、真っ先に思い浮かぶのは桐製品ではないだろうか。水気を防ぎ、熱にも強い桐材は、箪笥をはじめ収納調度の代表格だ。仕上がった桐製品の内部は緻密に組み上げられており、数十年の使用にも十分耐えうる堅牢なつくりである。
たとえば、婚礼家具として使われた古い桐箪笥。箪笥は、まず全ての金具を外し、水洗いで汚れやほこりを流す。桐材には事前に1 ~ 2年ほどもかけて丹念なアク抜きが施されているのだが、何十年もの年数を経ると、木の内側に潜んでいたアクが表面に浮いてきて、全体が黒ずんだように変化する。このような、洗うだけでは落ちない汚れも、かんなで板表面を薄く削ると元の明るい光沢を取り戻す。
そもそも、桐箪笥の引き出し前面の化粧板は「後年、削って見栄えを整える」ことも見越して張られているものだという。新調した時点で、将来、直して使うことを前提としたつくりなのだ。
部品ごとの見た目を整えた後は、傷んだ箇所を修復しながら金具を戻して締め直し、全体のゆるみや歪みを調整する。砥の粉(塗装用に使われる砥石の粉末)を塗り、イボタ蝋(虫白蝋/特定の虫が分泌する蝋を精製したもの)で仕上げれば、ほぼ新品同様の状態にまでよみがえる。
思い出の家具を直して使いたい、子どもに譲りたい、あるいは現在の住まいの寸法に合わせてサイズ変更したい。日本の木工芸は、そうした要望に応えうる技術の数々を、今も維持している。資源が先細りする時代に生きる現代人が、それでも、できるだけ質の良いものを手に入れたいと思うなら、「修復」という手段をぜひ選択肢に加えておきたい。
神社仏閣で使われる祭礼の装束や道具類は、さまざまな伝統工芸分野の職人が分業によって作り上げていくものだ。「木工藝もりち」を主宰する森地さんが数多く手がけるのは、たとえば京都・時代祭や、愛知県尾張旭市・井田八幡神社での献馬行事「馬の塔」などに使われる道具類の作成と修理。こうした実績を受けてか、近頃ではミュージアムでの再現展示用に、古代の刀剣の柄や馬の鞍を作成するというような、変わり種の依頼も舞い込んだとか。
これらは全てが一点もので、同じ手法を流用してこなせる仕事はほとんどない。だが、「子どものころにプラモデルで遊んだ、あの感覚の延長みたいなもの」と、森地さんは、その変化に富んだ試行錯誤の工程を楽しむ。
京都、祇園祭の橋弁慶山は、牛若丸と弁慶が五条大橋の上で戦う勇壮な姿を載せて巡行する。弁慶の人形を設置する際は、骨組みの上に鎧装束を付けて、木製の足型の上から足袋を履かせる。この足型も、森地さんが近年になって復元したものだ。
「足型は足袋に隠れて外から見えないし、制作者の名前も残るわけじゃない。でも、作った品物だけは、自分が携わった仕事の証として、自分が死んだ後にも引き継がれて使われていく。無数の、無名の職人たちの延長線上に自分は立っている。その中の一人として、伝統を後世に繋いでいくことに、自分の仕事の意味があると思います」。