少子高齢化とグローバル化が進展する中、日本でも移民の受け入れがさかんに議論されている。異なる国籍や文化を持った多様な人たちが共生・共存できる社会を「多文化社会」と呼ぶが、それを実現させるのは決して簡単なことではない。そのことは、社内組織や地域コミュニティなどの小さい集団の中で、皆さん自身もすでに経験しつつあることではないだろうか。
読書は「他文化」そして「多文化」への扉である。今号は、あるべき「多文化社会」の在り方を示し、具体的な未来の姿を想像させてくれるような選書をご紹介したい
移民たちがコロナ禍において直面している困難は、日本人以上に深刻だ。彼らは雇用環境が元々脆弱で、就職差別にも遭遇することもある。学びやつながりの困難を抱える人も多い。移民と接する機会の多い現場における最新情報を、本書では、雇用、労働、差別、学び、セーフティネット、支援など各分野の専門家や実践家たちが伝えてくれる。
ポスト・コロナの社会においては、感染拡大の防止に加えて、「弱者」を生み出さないという視点を欠いてはならない。少し先の未来のために私たちが考えねばならないことを、外国人労働者の貧困・人権問題を通じて考えさせてくれる一冊だ。
“移民”といえば、最近、ニュースで目にするようになった「技能実習生」というキーワードに注目している読者もおられるだろう。現行の技能実習生の制度は1993年に制度化されたもので、外国人の技能実習生が、出身国において修得が難しい技能などを学んで習熟することを目的とするものだ。
しかし、その理想とは裏腹に、近年は実際の運用上において、実習生の権利や自由の剥奪が起き得ることも問題視されている。たとえば、彼らの多くは渡航準備費用を工面する時点での債務を負って日本にやってくる。企業や事業主などの実習実施先と雇用関係を結び、その多くは最低賃金水準の条件で就労することになる。来日の際に家族を帯同することはできず、孤独に陥りやすく、困りごとを相談できる相手も限られている。
特に、コロナ禍以降の技能実習生は、勤務先事業の減産や停止の影響に直撃されることになった。しかも制度上、技能実習生は転職や副業ができないため、状況が長期化すれば、事態は悪化するばかりだ。渡航制限の影響で、帰国もできない。仕方なく日本国内に留まっても 日本語が十分わからないため、コロナウイルス関連情報にアクセスできない。ことばを学びたくても、地域の日本語教室は感染拡大に伴って活動を休止している......。
ここで改めて、コロナ禍約2年間の国内ニュースを思い返してみてほしい。「容易に貧困状態に落ち込んでしまう」。「相談窓口や支援者とうまく繋がることができない」。これらの状況は、日本人についても近年しばしば語られるようになったエピソードなのである。
「弱者」が抱える問題は、いつも社会を映す鏡のようなものだ。特に技能実習生の抱える困難は、彼ら自身に責任があるというよりも、技能実習制度自体の脆弱性に強く起因するものだといえる。これらの脆弱性は、社会状況の風向きによっては「移民」、「弱者」だけの問題ではなくなって、いつか「私自身」を含むコミュニティにも影響を及ぼすかもしれない。決して他人事ではないのだ。
本書には技能実習生だけでなく、移民労働者、留学生、家族に伴われて来日する幼い子どもなど、多くの事例が記されている。思うに、私たち日本人には、彼らが単に異国の地で暮らす苦労を想像こそすれ、リアルに踏み込んで知る機会はごく限られている。そこに、最初の断絶があるのではないだろうか。
私たちはこの先、国籍や民族に関わらず、同じ地域に暮らす生活者同士として、移民の人々とともに未来を生きていくことになる。だからこそ、まずは移民の人々の視点を借りて「日本社会の脆弱性」を自覚することからはじめてみよう。
出入国在留管理庁が作成した報道資料によれば、令和2年6月末時点における日本国内の在留外国人数は、約288万人。地域的には、東京都の約56万人に次いで愛知県、大阪府、神奈川県、埼玉県の順に在留外国人が多いという。
彼らの在留カードや特別永住者証明書上に記載された国籍・地域の数は、なんと196(無国籍を除く)にものぼる。日本はすでに、私たちの想像をはるかに超えて、多国籍の人々が隣人として暮らす国なのだ。
日本は、もはや「日本人が日本語を話す国」ではない。多様な人々が暮らすニッポンは、現時点ですでに「多言語」の国だといえる。本書では、イスラム横丁、LINEスタンプ、小学校の教育現場など、さまざまなことばが使われている「多言語な」現場を、ことばの教育に携わる筆者らが実際に訪ね歩いて、具体的な現場を紹介してくれる。
日本人として日本語を使うだけで生活していては、なかなか特段に意識することのない「多言語なニッポン」。本書に記される多くの事例によって、実際に日本で話されているさまざまな言語のことを知り、その話し手たちを身近に感じることができるだろう。
何といっても、象徴的なのは本書の表紙である。店舗の立ち並ぶ街角の看板を撮影した一枚の写真の中に、いったい何種類の言語が混じって記載されているだろうか。これが、まぎれもなく「今そこにある」街を切り取った風景だというのに、私たちは、自分の国を「多言語の国」だとは未だ意識していないところがある。
たとえば英語は「世界共通語」などとも呼ばれ、母語の異なる人どうしで意思の疎通を図る「共通の」道具として重要視されてきた。だが残念ながら、義務教育で英語を履修した日本人でも、英語が得意な人とそうでない人の間で語学力に大きな開きがある。英語が母語でない者同士にとって、英語はそれほど万能でも便利でもないのが現実だ。
だとすると、日本国内で「共通語」として最も多くの人に都合がいいのは、実は日本語だということになる。分かりやすいのは、日本語学校に通う学生同士の関係性だ。本書では、学生たちが日本語能力の差を乗り越えながら、LINEスタンプを「共通ツール」として楽しく繋がり合う様子が紹介されている。
なお、LINEスタンプには外国語に平仮名のふりがなが付いた「多言語スタンプ」というものも登場しているという。ふりがなを頼りに、こちらは日本語話者が相手の話す他言語を発音して学べる仕組みだ。LINEスタンプは、文化も言葉も異なる相手に気軽にアプローチできる、ほどよい入り口となっている。
本書中には、他にも行政や観光業界による比較的大規模な取り組みから友達同士の気軽なやり取りまで、実に数多くの「多言語」環境が紹介されている。これらはいずれも「母語の異なる人と、いかにコミュニケーションするか」についての試行錯誤と工夫の事例でもある。さて、あなたなら、隣人に対してどんなふうに歩み寄ることができるだろうか。
著者・星野ルネ氏は、カメルーン生まれの関西育ち。まだ4歳になる前に母親に伴われて来日して以降は、ずっと兵庫県姫路市で育ったという。どうやら、そんなルネさんの生い立ちは、人々の共感や耳目を集めるらしい......?ルネさんが日本で暮らす中で出会った人や、巻き起こした事件を描く、スピード感のあるまんが連作だ。
アフリカ少年の笑いあり涙ありドタバタの成長日記は、楽しく、また私たち日本人が思う“あたりまえ”をどんどん覆していくような読後感。「そもそも、日本人らしさって何だっけ?」と、もう一度自分に問い直したくなる、爽やかな魅力のある一冊だ。
4歳になる前、母親の結婚に伴われて来日したルネさんには、カメルーンで過ごした幼児期の記憶はほぼ残っていない。だから、たとえ外見がカメルーン人そのものでも、ルネさんの里帰りはカルチャーショックの連続だ。
一方、日本でもルネさんの外見から数々の誤解が生まれ、珍事件が巻き起こる。「日本国内なのに英語で話しかけられる(が、ルネさんは英語がとても苦手だそうだ)」、「お箸を使うだけで感動される」、「関西弁に驚かれる」。日本で暮らすうえで言葉や習慣の苦労はなくても、大小の面倒ごとがあるのだろうなと想像される反面、それらの事件をおおらかに描く筆致は嫌味がなくて明るく、どのエピソードも面白い。
中でもルネさんが、両親から受けた日本式・カメルーン式ふたつの家庭教育について紹介するまんがを「らしさの原料」と題していることはとても印象深い。
2つの国をルーツに持つルネさんは、時と場合によって「日本人より日本人らしい」、あるいは「やっぱりカメルーン人だな」と、たびたび他人から言われることもあるという。では、実際のところはどうなのか?「アフリカ少年を日本で育てた結果」について、ルネさんはこう答える。「自分らしくなる!でも答えはたくさんあるんだ!」。
生まれた国、育った国、両親の文化背景と性格、学校教育、職業経験、出会った人々......。すべての原料が積み重なって「らしさ」になるとすれば、国と国、文化と文化の間を移動し続ける現代人が「〇〇人らしい」と国籍で他人をひとくくりに語ることは、実は、とっくの昔にできなくなっているのかもしれない。
「自分らしくなる」。その言葉は、外国籍の人に限らず、日本人コミュニティの中にいる私たちの呪縛さえ解き放ってくれる、胸を打つような鮮やかな表現だ。さて、あなたの「らしさの原料」は何だっただろうか。いまいちど振り返ってみるのも悪くない。