人類の歴史の中に、最初に登場する金属といえば「銅」である。身近な例を挙げれば、銅や銅の合金は貨幣の材料として古くから利用されている。現在の日本でも、アルミニウム製の1円玉以外すべての硬貨は、それぞれ割合の異なる銅合金によるものだ。
実用向きに銅が重用される一方で、その希少性と装飾性の高さに注目され続けてきたのが、金や銀といった貴金属である。貴金属による装飾は、美術工芸品や建築に付加することで輝きを増し、重厚感を添える。これら装飾のための技法も、主に時の権力者たちの手によって、贅を競うように日本独自の発展を遂げてきた。
そもそも、銅や銅合金が古くから人々の暮らしに利用されてきたことには、どんな理由があるのだろうか。先に挙げた硬貨の例を、もう少し追ってみよう。
なんといっても第一の利点は、加工しやすいこと。銅はやわらかくて粘りがあり、圧延や押し出しなどの加工をしやすい金属の代表格だ。複雑なデザインの硬貨を大量製造するために、銅や銅合金ほど有用な素材はないのである。また、銅本来の色を呈する10円玉、金色に近い5円玉など、銅の合金は色が豊富で美しく、バリエーション豊かな硬貨を生み出すことができる。それでいて、金や銀などの貴金属よりもずっと安価で豊富に手に入る。
さらに、硬貨は長年使用することが前提となるから、少々荒っぽい使用や保管にも耐え、簡単に摩耗せず、錆びにくいことが重要だ。これは硬貨以外への加工用途でも同様で、たとえば建材として屋外で風雨に晒されるような状況においても、銅は、数百年もの使用に耐えるという。曲がった部分、変色した部分を整えて修理すれば、時を超えて、制作当時の姿を再び復元することもできる。
金箔とは、純金にごく微量の銀や銅を加え、金槌で叩いて薄く延ばしたもの。その薄さは、およそ1万分の1~2mmとされる。約2gの金を、畳一枚分に延ばすようなイメージだ。
木や銅などで作られた下地の上に金箔をほどこすのは、箔押師の仕事である。まずは、金箔を接着するため、漆を下地に塗る。漆に必要な粘度はその日の湿度や温度によって異なるため、日ごとに行う漆の調整が仕上がりを左右するという。四角形の金箔を1枚ずつ漆の上に置き、真綿で押さえながら、磨くように下地に密着させていく。わずかな純金で広い面積を覆うことができ、平面曲面を問わず、また仏面のように複雑に入り組んだ面にも自在に密着させることができる。この利点から、金箔は、家具や建具類、漆器などの工芸品、神祇調度品や仏壇・仏具などの表面装飾に幅広く使われてきた。
表面に水銀を塗り、その上から金箔を置くと、金箔が水銀に溶けるように混ざる。その状態に熱を加えて水銀を蒸発させると、仕上げ表面には金だけが残る。これが、古くから利用されてきた水銀メッキのメカニズムで、「鍍金」とも呼ばれてきた技術だ。電気のない時代から長く使われてきた手法で、古くは東大寺の大仏にも鍍金の形跡が残っているという。
ただし、水銀自体の有毒性と扱いづらさのほか、美しく仕上げるためには金を厚く付ける必要があるなど、現代の水銀メッキは価格面でも折り合わなくなりつつある。近年の伝統工芸においては、水銀メッキによる加工も一部を残しつつ、工業製品と同様の電気メッキが加工の大部分を占めている。
神祇調度品とは、神社の祭祀・祭礼に使われる道具を総称するもので、神殿や三方などの木具、和鏡、御簾、几帳、旗などが含まれる。その多くは少量生産・手作業の工芸品だ。
「神仏錺金具」は、神祇調度品および仏具における金属製品を指す言葉で、「飾り」ではなく「錺」という表記が使われる。明治初期~中期ごろが錺金具の最盛期と言われるが、その背景には、明治以降に日本刀が作られなくなったことで、腕の良い刀の装飾職人が仕事にあぶれたという事情もあるようだ。当時、檀家や氏子から寄付を集め、大規模に職人を集めて作らせた寺社の錺金物には、特別に精緻で美しく、また豪奢なものが数多く残されている。
京都市内に工房を構え、神仏錺金具の製造を専門とする大柳製作所。祭祀に使われる道具類や神職の冠、神輿の装飾、襖の引き手や釘隠のような繊細で小さな細工から、大きなものでは神社や寺の建築金具を手掛けることもある。
静岡県磐田市にある満徳寺で2019年に新調されたばかりの破風金物も、大柳製作所によるものだ。豪華な彫刻と金箔で装飾され、神社仏閣の屋根付近に取り付けられる華やかな破風金物。そのはじまりは、ただの平たい銅板一枚である。
まずは、取り付ける箇所に紙などを当てて型取りをし、寸法と形を写す。この型紙を使って、墨で大きな銅板へさらに写し、まずは外形の部分に鏨を当てて余分な箇所を切りとっていく。複雑な意匠は専門の彫金師にいったん任せるが、彫刻を終えて大柳製作所へと戻った後にも、長い工程が待っている。透かしを入れたり、切ったりして形を整え、あとは膨らませたり、曲げたり、ひねったり。銅をなまして(加熱して)打ち叩き、再びなましてまた叩く。これが「鍛金(打物)」という立体成形の工程だ。
「あて」と呼ばれる道具は、欅や桜など、乾燥した堅い木の切り株に大小さまざまの孔を穿ったもので、各々の孔に合う当て金を差し込んで固定する台座である。錺師は、当て金のカーブを使いながら銅を叩いて曲げていく。ただし、多種多様の当て金を常備してはいても、それで全ての場合に対応できるわけではなく、錺師自身が必要な道具を作ることもある。
成形が終わったら、銅板の上から金箔を押して表面を仕上げ、部分的に墨を差して着色し、立体感を加える。仕上げが終わった破風金物は、建物に取り付けられて完成となる。
破風金物は、屋外で時を経るうちに金箔が剥がれ落ち、汚れと酸化で変色し、変形して歪むこともしばしばだ。だが、汚れを落とし、形を整えて再び金で仕上げれば、錺は何度でもまたよみがえる。何代もの錺師たちの手を経ながら、錺金具は、数百年もの時を超えていくのである。
大柳製作所は、もとは堀井家という錺師の家系で、代々の当主が「堀井新兵衛」という名と「錺新」の屋号、そして仕事を継いできた。正確な創業年はわからないが、先祖代々が出入りする神社の修復作業に出かけた折には、江戸や明治期の古い金具にも「堀井新兵衛」の銘を見つけることがあるという。
「古いものを見ていると、面白いですよ。今よりずっと贅沢なつくりやなとか、これとあれは同じ職人の手やなとかね。おそらく自分が作ったものも、後の世でそうやって見られることになるんでしょうね」。
金属、特に錺金具の土台となる銅の耐用年数は、数百年にもなる。いま、遠い先祖の手掛けた金具が、修復のために大柳さんの手元に戻ってくることがあるように、今の大柳さんが作製した金具を修復するのは、おそらく、もっと先の子孫の仕事になるだろう。
ただし、老舗とは言うものの、大柳さん自身に過度な気負いはない。今に残る多くの伝統工芸は、決して非凡な一代限りの天才が築いたものではないと考えるからだ。特別な才能に恵まれたわけでなくとも、努力と修行次第で技術を身に付けられる仕事だからこそ、伝統は、世代を超えて繋がっていく。
「決して半端な仕事をしないこと。たった一度のことでも、崩れてしまった信頼はなかなか取り戻せないものです。たとえば、今宮神社の本殿の錺は、昭和40年に祖父と父が手がけ、平成17年に父と私が再び修復したものですが、宮司さんは一貫して、錺は大柳にしか触らせへんと仰る。そのお言葉に応えられるだけの安定した仕事を、こちらもお返ししていかなければと思います」。