日本の素材百科
第1回

土とうつわ

大切にしていたうつわが割れてしまった。代わりを探しても見つからない。似たものを買い足しても、どうもしっくりこない……。皆さんには、そんな経験はないだろうか。「このうつわでなければ駄目なのだ」。その感覚は、他人には理解しがたいかもしれないが、なかなかに切実なものだ。

うつわは、日々の生活に寄り添うパートナーだ。私たちは、食事やコーヒーブレイクなど、忙しい日々の合間にほっと息をつく時間の数々を「土のうつわ」とともに過ごしている。

「土」という素材

陶器は、地中の粘土層から掘り出した粘土が主原料。一方、磁器は陶石、長石、珪石、カオリンなどガラス質を含む素材を粉砕して粘土質に加工したものを主原料としている。磁器の場合、高温で焼き締めた後は半ガラス質になって、水を吸わなくなる。

これらは実は、土に含まれるありふれた成分であって、日本中どこのどんな土でも、高温で焼成さえすれば焼きものになるとはいうが……。実際には、必要な強度を保ちながら成形し、陶器や磁器として実用性を備える「原料としての土」となると、とたんに限られてくる。それでも先人たちは、科学的な成分分析の手法もない時代から、勘と経験だけを頼りに原料を探してきたのである。

ただ、いくら限られるとはいっても、なにも宝石や希少な鉱石を掘り当てようという話ではない。原料の質を保つという点に困難はあるとしても、量的な悩みには縁遠いように思われるかもしれない。ところが近年、焼きもの業界に、そう呑気に構えてもいられない現実が迫っている。原料となる土の「量」が、今まさに、問題として顕在化しつつあるというのだ。

ここでひとつ、想像してみてほしい。土地の保有者は、自身の保有地を焼きものの採土場にするか、それともマンションなどの収益物件を建てて資産活用の一途とするか、どちらを選びたがるだろう。後者を選ぶ人も、おそらく数多いのではなかろうか。

「土はたくさんある、だが、採れない」。現代において産地の都市化が進んだことで、つくり手たちは、これまで思いもしなかった弊害に悩まされることになりそうだ。「この先何十年もの間、原料不足に悩むことだけはないと安心していたが、これもまた、未来の産地が抱えていく課題のひとつか」。産地からは、そんな嘆きの声が少しずつ聞こえはじめた。

土練りからうつわの焼成まで

採取された粘土や磁土は、まず土練りで均一な硬さに調整される。その後、各工房などに運んで成型され、風や直射日光を避けながらゆっくり乾燥させる。十分に乾燥して水分の抜けたうつわは、まず700度から800度での素焼きを経て、下絵付けや施釉が施される。

本焼きの温度は、陶器の場合で1100度~ 1300度、磁器なら1300度~1400度。高温を保ちながら、数時間をかけて焼き上げる。

現在の陶磁器全般に使われる工業的な窯は【トンネル窯】と呼ばれる形状のものだ。細長いトンネル状の窯の中に焼きものを積んだ台車を通して、電気やガスによる焼成・冷却を連続的に行なう方式で、ロスが少なく、均一な製品の量産にも適している。

だが、焼きものの窯といえば【登り窯】をイメージする方も多いだろう。登り窯は、山の緩い傾斜を利用してかまぼこ形の窯を段々に連続させたもので、そのさまは、焼きもの産地を象徴する原風景のようでもある。

登り窯は、かつて中国・朝鮮から伝わった古い形式の窯で、効率良く余熱利用ができる反面、広大な土地が必要になること、窯の構造から薪燃料しか使うことができない。かつては松脂を含む松の薪を主な燃料としていたそうだが、この薪も、現代においては非常に高価なものだという。またガスや電気の窯と違って薪窯での焼成はロスも多く、職人の高い技術を要する。こうしたことから、現代では、登り窯を焚く機会自体が、ずいぶん贅沢で貴重なものになってしまった。

産地のいまむかしを訪ねて

古くから現在に至るまで、日本には全国各地にさまざまな陶磁器の産地が点在している。

なかでも日本六古窯は、古来の陶磁器窯のうち、中世(平安末期~安土桃山時代)から現在まで、約900年以上も生産が続いている代表的な6つの窯の総称だ。6つとは、越前焼(福井県)、瀬戸焼(愛知県)、常滑焼(愛知県)、信楽焼(滋賀県)、丹波立杭焼(兵庫県)、備前焼(岡山県)。これら六古窯は、近世になって製陶技術が朝鮮や中国から渡来する以前から稼働している窯で、日本独自の技術による「日本生まれ・日本育ちの焼きもの」である。

六古窯以外にも、国の伝統的工芸品に指定されている産地といえば、日本列島の北は福島県の大堀相馬焼から南は沖縄県の壼屋焼まで、多種多様にわたる。現在の指定品目は、六古窯を含めて31種類。もちろん、伝統的工芸品指定を受けていなくとも優れた産地は国内に多数点在しており、それらを含めると、私たちは、日本中どこに旅しても美しい器に出会うチャンスに恵まれていると言えるだろう。

うつわの産地がうまれた条件は、第一に「近くで採土できる」ことが重要なポイントだっただろう。それから、登り窯を建造できる「広い斜面」も必要だった。採土・製土の過程では大きな音も出るため、少々人里から離れているほうが、都合が良かったかもしれない。そこで産出されるうつわは、例えばそこで暮らす人々の生活のうつわとして、あるいは観光客のお土産物として、各々が独自の進化を遂げてきた。

分業のまち「清水焼団地」

面白い例では、京焼・清水焼の例がある。産地の清水・五条坂近辺は、京都・東山山麓の東側の丘陵地に位置しており、年々、観光地化の進む市街地エリアだ。都市部の産地には、騒音や煤煙などの懸念が付きまとうようになる。そこで産地では、昭和36年(1961年)、職住一体の工業団地として「清水焼団地」を整備するまちづくりが計画施行された。町には京焼・清水焼の卸問屋、陶磁器の原材料屋、作家、窯元、さらにはうつわを収納する木箱の職人(指物師など)などが軒を連ねるようになり、その各々が焼きものに関する分業を支えるようになった。

毎年10月の大陶器市「清水焼の郷まつり」は120店を超える陶器商のほか、地元の名店や飲食店も多数出店する、産地の秋の風物詩だ。近年は団地内に独自の実行委員会を立ち上げ、まつりの運営について外部に委託していた部分も全て、団地内の実行委員たちが担うようになった。市には窯元からの直売品や、若手注目作家の作品などもずらりと並び、掘り出し物を探し歩く買い物客で連日賑わう。産地の人々と顔を合わせて言葉を交わしてみる、それもまた、うつわ選びの一興として楽しみたい。

お話をうかがった人

「おきにのうつわ」
三谷幸史さん湯浅靖代さん

三谷幸史さん、 湯浅靖代さん

「おきにのうつわ」は、京焼・清水焼の卸を営む三谷幸史さんと、食空間コーディネーターの湯浅靖代さんのご夫婦が立ち上げたユニットだ。京都の伝統工芸品の普及のため、SNSでの情報発信や各種イベント、講演など多岐にわたる分野で活躍するお二人である。

夫婦が出会ったのは、京都伝統産業青年会が毎年開催する展示会だった。展示会には、陶磁器以外にも紙や扇子・団扇、織物、人形、石材、竹材、木材、日本酒など、さまざまな品目が一堂に会する。会場のディスプレイを任された湯浅さんは、展示会以降も「伝統工芸品の各分野を繋ぐ、横糸を通すようなコーディネートを」と心がけるようになった。

一方、京焼・清水焼の卸商をつとめる三谷さんは、「うつわは飾って眺める美術品ではなくて、あくまでも実用品。高級品のイメージばかりが先行して、実際に使っていただく機会もなく敬遠されてしまうのを避けたい」と懸念する。お客様に気に入って使っていただくことこそ、産地を活気付け、清水焼の優れた技術を後世に伝えていくための最善策なのだ。

「今の時代とライフスタイルに合ったうつわの使い方を提案していくことで、多くの人に陶磁器と伝統工芸品の魅力を知ってもらい、手に取っていただきたい」。お二人の挑戦は、これからも続く。


(取材・執筆/石田祥子 記事監修/おきにのうつわ)

PAGE TOP