特集

溶接とわたし


1. 溶接との出会い

私と溶接との関わりは1972年4月に大阪大学工学部溶接工学科(現在の応用理工学科生産科学コース)への入学から始まり、人生の大半を溶接に関わってきたことになる。大学卒業後、今の道に進んだのは4年生から3年間佐藤邦彦先生の研究室でお世話になった影響が大きいと思う。4年生では川崎重工業(神戸工場)の溶接研究室で高張力鋼の低温割れに関する卒業研究をさせて戴いたので、平日は川重、土曜日は大学に行くという生活であった。川重で出会った方々とはその後も親しくさせて戴いている。大学院(前期課程)では低温割れの原因となる水素の拡散に関するシミュレーションを行ったが、今と違い大型コンピュータのある計算機センターに行ってプログラムやデータをカードリーダーで読み込ませていた。当時は京大の計算機が優れていたのでカード(1000~2000枚)を段ボール箱に入れて運び、プログラムを読み込ませた後、銀閣寺や哲学の道を散策しながら結果が出るのを待っていた。

前期課程修了後は大学で得た知識はモノづくりの中で生かすべきと思い就職することにした。当時の就職は今とは異なって企業から大学に求人があり、就職担当の教授が学生の希望を聞きながら割り振る、というものであった。研究室での経験を少しでも役立てられそうな企業として大型溶接構造物を作る企業に就職したいと考えた。三菱重工、川重、IHIは強く希望していた同期生がいたことや父が住友系の企業に勤めていたことから住友重機械工業(住重)に就職することにした。

2. 造船所時代

(1) 不況の中の入社

図1 造船従事者数の推移(造船工業会資料より作成)

1978年4月に住重に入社し、溶接技術者としてスタートしたが、配属先が追浜造船所と聞いて驚いた。オイルショック以降の不況で国内造船所の新人採用はほとんど無かったからである。追浜造船所でも希望退職だけでは過剰人員を解消できず、退職する従業員の基準について労使間で交渉されているような状況であった。その後も不況が続き、結果として国内の造船従事者は約15年間に1/3以下になった(図1)。この期間はほとんど人を採用していないので自分より年上はいても年下はいない、という状況が長く続いた。一方では私に造船溶接を教えてくれる先輩が社内外に多くおられた。

(2) 思い出に残る仕事

① セミサブリグ
図2 Ocean Odyssey(Wikipedia)

追浜造船所でセミサブリグを1隻建造したが、これは苦い思い出として残っている。1982年2月、新婚旅行から帰ってきて出社したらセミサブリグ“Ocean Ranger” が転覆・沈没した、というニュースが飛び込んできた。84名が亡くなるという大惨事であったが、追浜造船所で作っていたのがこのリグと同船主、同型で船名も“Ocean Ranger Ⅱ”と決まっていた。その後、転覆の原因と考えられる項目について次々と設計変更が行われ、検査も厳しくなり当初予定の1982年末に引渡しができなくなった。私自身は一般商船を担当していたが、最後は総力戦となり、最初の結婚記念日の夜はクレーンの荷重試験のためリグの上で過ごすことになった。最終的には“Ocean Odyssey”と改名され、3ヶ月遅れで引き渡された(図2)。このリグは頑丈にできていたのか、石油掘削中の爆発事故でも壊れず、今はロケットランチャーとして使用されているようである。

② 空母MIDWAY
図3 サンディエゴで博物館になった空母MIDWAY(Google Map)

米軍横須賀基地に半年余り滞在して行った空母MIDWAYの改造工事(1986年)も思い出深い。浮力を増すために片側11ft(3.3m)、両側で22ft(6.6m)拡幅し、HY80約1000tを含めて約4000tのブロックを船体に取り付けるという大工事であった。外板には最大板厚3インチ(76.2mm)のHY80が使用されており200 ~300°F(93~143°C)に予熱する必要があったが、この時は川重神戸での経験が役立ち、予熱は潜水艦工事で使用するのと全く同じストリップヒータを用いた。また、リベットで接合されている既存の防弾鋼板との溶接では米軍を説得して当時の米軍規格になかった309系ステンレスFCWを約11t使用するなど貴重な経験ができた。

MIDWAYは1992年に退役し、今はサンディエゴで博物館となっている。土木や建築と異なり「造船屋は地図に残る仕事はできない」と言われていたが、幸運にも地図に載っているのである(図3)。2013年に旅行で訪問したが、昨年、出張で再訪でき、不思議な縁を感じた。

③ メガフロート
図4 長さ1000mのメガフロート実証実験モデル(国土交通省)

MIDWAYの後、約8年間の非造船期間を経て1994年10月に造船に戻ったが、すぐに超大型浮体式海洋構造物(メガフロート)のプロジェクトに携わることになった。長さ1000mの実証実験用浮体(図4)の建造、解体、再利用、羽田空港の新滑走路(現在のD滑走路)の検討と10年間メガフロートに携わった。私は生産技術者として洋上接合では波浪で動揺している浮体構造物同士の接合や水面下の溶接方法、解体では水面下の切断方法などの工法検討を主に担当した。

このプロジェクトは鉄鋼・造船会社が中心となって設立したメガフロート技術研究組合で行われたので、洋上接合工事や解体工事は参加企業が協力して行った。このときの最大の収穫は一緒に仕事をした他社の仲間との交流で、今でも半年に1回集まって友好を深めている。

(3) 社会人ドクター

メガフロート関連の仕事の後、他社の仲間から博士論文を書くように勧められるようになった。私はメガフロートの成果は参加企業の共有財産であり、自分が担当してもその成果で博士になるのは?と思ったが、将来洋上接合をやる人のためには洋上接合の考え方を整理して残したほうが良いとも思い、トライすることにした。

大阪大学で佐藤先生の後を継がれた豊田政男先生に相談したところ、工学部長・工学研究科長として御多忙であったにも関わらず、快く博士課程(後期)の学生として研究室に迎えて戴いた。豊田研究室には2006年4月から1年間在籍したが、研究会や懇親会にはなるべく参加するようにした。周囲の学生は息子くらいの年代であったが、今でも親しくしており、研究室の同窓会では約30年離れた飛び地で歓談している。

3. 神戸製鋼所に移籍

定年まで1年余り残して造船所を退職し、2012年4月に神戸製鋼所に移籍した。希望すれば定年後も造船所で働かせて戴けると思ったが、別の世界も経験したいという好奇心の方が勝り、無理を言って異動させて戴いた。

神戸製鋼所では造船用の溶接材料や溶接法を開発している研究員に船の建造方法や留意点をアドバイスしている。造船所に出張した際は造船所の技術者の話し相手になっているが、今でも造船技術者の先輩として対応して戴き、感謝している。国内造船所は不況時代にほとんど人を採用していないので、ベテラン技術者はほとんどいない状況にある。日本の造船業界のために少しでも役立てれば、と思っている。

4. 振り返って

私は造船所で34年働いた後、溶接材料メーカーで4年間過ごしたが、この間の経験と出会った方々が私の宝物となっている。これは単に運が良かったからに他ならない。この運とは関係ないかもしれないが、一応、以下のような点に気をつけて過ごしてきたつもりである。
■出会いを大切にする。(参加できる行事には参加する。)
■頼まれた仕事は基本的に断らない。
■現状を肯定的に受け入れ、先のことを考える。

つまらない独り言を最後までお読み戴き、ありがとうございました。

(株)神戸製鋼所 溶接事業部門 技術センター
専門部長 山下 泰生

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